• コラム

2017年11月29日 | シンガポール

元U-19日本代表・木暮郁哉、シンガポールで語る(前編) 若者よ、海外へ行け!


ASEAN(アセアン:東南アジア諸国連合)をリードする経済大国シンガポール。この地でプレーして丸3シーズンを迎えようとしている元U-19日本代表選手が、海外でプレーする、生活することの重要性について熱く語った。

その選手の名は木暮郁哉(こぐれ・ふみや)。東京出身で、高校までは三菱養和SCでプレーし、高校卒業後すぐにJ1のアルビレックス新潟に加入。その後、水戸や沼津へレンタルで出されたあと、アルビレックスとの7年間の契約を満了し、シンガポールへやってきた。

シンガポールへ来た初年度に所属したアルビレックス新潟シンガポールで活躍し、日本人初のSリーグ(シンガポール1部リーグ)でMVPを獲得。その活躍が認められ、翌年はホーガン・ユナイテッドへ移籍。ホーガン2年目の今年はキャプテンを任されている。


その木暮が、海外でプレーすること、生活することで感じた、「自分で考える事の重要性」「行動してみることの重要性」について、熱く語った。


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ほんと、自分のことも自分でやってこなかった。すべて親や環境に甘やかされていた自分がいました――。

そう語る木暮は、4歳年上の兄の影響があってサッカーをはじめる。サッカーの才能があることを見出した両親は、本人の意思を確認する前に、木暮を東京の名門クラブチーム三菱養和SCに入門させる。その後、クラブでもメキメキと頭角を表す木暮だが、試合や合宿に行くときの自身の荷物を詰めることすらも両親がやってくれていた、学校とかも送り迎えしてもらっていた、と当時のことを恥ずかしそうに語った。

さらに両親は、ここでの活動やアンダーカテゴリーでの日本代表での活動がしやすいように、芸能人などを多数輩出している駒込学園高校への進学を勧め、木暮はその敷かれたレールにただ乗っかるようにして、言われるがままに、導かれるがままにその後のサッカー人生を進めていった。当時の代表では、香川真司、清武弘嗣、柿谷曜一朗などもチームメイトだった。

そして、順調満帆の中、高校卒業を前にしていくつかのJクラブから練習参加の誘いが来ることになったが、木暮本人はプロになることはあまり考えておらず、なんとなく大学に行き、なんとなく良さそうな会社に就職するもんだろうと漠然と思っていた。

「あまり、自分のキャリアについて自分自身で考えるようなことをしてこなかったんです」

そう語る木暮に、大きな転機が訪れたのは、高校3年の冬だった。全日本クラブユース選手権の東京都予選を勝ち進む中、決勝戦を迎える1週間前、同級生でずっとともに歩んできた仲間の岩佐篤が交通事故で突然他界することを知らされる。

「あいつの分も、、、あいつのためにも、、、」

岩佐もプロから声がかかるくらいの実力者だった。むしろ当時のチームのエースが岩佐だった。

岩佐の分も背負ってプロになるんだ―――

その時が、木暮にとって、人生ではじめて自分でキャリアを決断をした瞬間だった。

多くのクラブが木暮に声をかけてくる中、サッカーに集中できる環境があるアルビレックス新潟の門を叩くことになる。

2008年春、はじめて親元を離れて宿舎に入り、高卒ルーキーとしてのプロ生活がスタートした。
当時のアルビレックス新入団の同期には、いまも一線で活躍している川又堅碁や鈴木大輔、大野和成もいた。

新シーズンが開幕し、多くの新人がベンチにも入れず苦労している中、木暮にとっては幸いした展開が待ち受けていた。同ポジションの先輩選手たちが怪我でプレーできない状況になっていた。

Jリーグのピッチに初めてデビューしたのは、第3節、アウェイでの浦和レッズ戦。その日ベンチに入っていた木暮だが、スタメンの選手が負傷退場を余儀なくされた。「フミヤ、入るぞっ」コーチから突然声をかけられる。

かくして、過去に5桁の数字の観客が入るような環境で試合の経験をしたこともない木暮郁哉は、4万6千人を超える大観衆の埼玉スタジアムのピッチに途中出場することになった。

その後もレギュラー組に入り、コンスタントに試合に出続けることとなった木暮だが、実はこの高卒ルーキーとしての早いデビューが、その後の怪我や心の慢心につながってしまい、エリートコースから大きく外れていく原因となってしまうことは本人すらも気がついていなかった。

シーズン半ばで迎えた東京ヴェルディ戦。あの元ブラジル代表フッキが、まだヴェルディでプレーしていた頃だ。元々細身の木暮は、まだまだ高校生の身体でJ1の選手たちとぶつかりながら戦ってきた。試合中、フッキには片手で軽くふっ飛ばされたという。その試合をきっかけに腰を痛めた木暮は戦列から離れることになってしまった。

シーズン終盤に最後復帰したものの、当時はただガムシャラに過ごした一年目となった。

2シーズン目となった翌年は、一転ほとんどゲームに出られなくなり、悩みながら時間が過ぎていった。実はこの2年目がはじまるころ、木暮はクラブから合計7年の契約を打診されていて、それを受けていた。これが自身の慢心につながってしまったのではないかと自己分析している。

3シーズン目、試合に全く出られてなかった同期の川又堅碁が海外での武者修行の経験機会を求め、ブラジルに武者修行留学に出ることになった。木暮にもその誘いがあったが、自分はまだ試合にも絡めていたから、と海外行きは断っていた。

そして漫然と迎えてしまった4年目が自分のサッカーキャリアの分岐点になったと思う、と木暮は語る。常に降格の危機にさらされているアルビレックスだが、その中でヒリヒリした環境下で活躍して名声を得た選手が結構いる。前出の川又などはその一例だ。しかし、ここでも木暮は頭角を表すことはなかった。その中で迎えた5年目。監督の構想に入らなかった木暮だが、自身にその責任があることを認められず、

「まだあと3年あるし、俺はクラブに必要な人間だし、監督が悪いんだ・・・・」と都合のいい解釈をしてしまう。


6年目、ついに木暮はアクションを起こす。

当時J2の水戸にレンタル移籍することになった。だが、ここでも木暮は「変なプライド」に邪魔されてしまうことになる。

「俺はJ1から来たんだ、あいつらとは違うんだ、俺には帰る場所(アルビ)もあるし」と上から目線になっていた自分がいた、と自身を語る。同僚の選手たちとは仲良くできており、決してコミュニティに溶け込めなかったというわけではなかっただが、そのプライドが邪魔をし、ガムシャラに虎視眈々とJ1を狙っている同僚たちとの「熱」の違いがプレーの差にも出て、結果水戸でもレギュラーポジションを勝ち取ることはできないまま水戸へのレンタル期間も終了してしまう。

7年目、いよいよアルビレックスとの契約の最終年となる。完全に戦力構想外になっていた木暮にはいくつか他のクラブから話が来るものの、まとまりきらず、最後の最後に当時アマチュア(JFL)のアスルクラロ沼津への移籍話が出てきて、行くしかない、という状況になった。

J1からJFLへの転落――。

ただ、ここでの経験が人間・木暮郁哉をひと回りもふた回りも大きくする。

アマチュアクラブでは、サッカーだけやっていて生活している選手はほとんどいなかった。朝練習を終えて職場へ出かけていく同僚。仕事場から戻ってきて練習する仲間たち。彼らのサッカーへのひたむきな姿をみて、木暮は自身のサッカーへの取り組み方を見直すことになる。

「オレは今まで何をしてたんだ。こんながんばってるやつがいるのにオレは一体・・・・」

J1というプロのトップレベルとアマチュアの両方を味わえたのは、自分の人生にとってすごくいい経験となった。思考の幅がものすごく広がった。いままでいかに狭い世界で生きてきたのか、ということを実感することができた。

ここで木暮は、ほぼ全試合に出場し、中心選手として活躍した。

沼津からも翌シーズンも残ってほしいというオファーをもらっていたが、ここに完全移籍して残るならアマチュア―――。
それならもう選手としては引退して、他のことでも始めるか・・・・。そんなことを思っていた。

でも、よくよく考えたら、木暮には他に何もなかった。
いままでサッカーにかけてきた情熱を振り向けることができるものが何もなかった。

「あの時がキャリアのどん底だった。毎日が地獄。お先真っ暗、生きてる気がしない。サッカーしかしてないし、他に何のスキルもなかったし・・・」と自身を振り返る木暮は、一方サッカーに対してももう一度向き直してみようと決心した。

「だからサッカーするしかないと思った。失って初めて気づいた。なくなったときに気づいた。」

やっぱオレ、サッカーが好きだ―――。

ダメ元で参加したJリーグ合同トライアウトに参加した直後のことだった。アルビレックス新潟シンガポール(以下、アルビS)の是永大輔社長からオファーの電話がかかってきた。

アルビSというチームがあることは事前に知っていた木暮。電話を受けたときには、もう心のなかでは行くことは決めていたという。プロサッカー選手がもう一度できるという喜びに加え、当時メディアなどでも騒がれていた経済大国シンガポールという国で生活できることにも大きな関心があった。

「元々、僕はいろんなものに興味が湧きやすい性格なんです」

と語る木暮の頭の片隅には、この地で生活することによって、将来のキャリア、ビジネスに何かチャンス、ヒントをつかめるんじゃないかという期待もあった。実は、是永社長から電話を受けたときにちょうどテレビでシンガポールの特集番組を観ていたそうで、これはもう何かの運命じゃないか、と鳥肌がたったというエピソードも教えてくれた。

かくして、木暮郁哉、26歳。失意と希望を心に日本を飛び出し、赤道直下の南国シンガポールに自身のキャリアを移すことになった。

<後編へつづく>

サッカーで自分の”世界”をひろげよう!ミッション型海外インターンシップ「M:I Football」
2018年3月12日〜16日@タイ・バンコク



木暮 郁哉(こぐれ ふみや)
1989年生まれ、東京都出身。三菱養和SCでプレーを始め、世代別代表にも選ばれる。高校卒業後にアルビレックス新潟に入団。高卒ルーキーながら当初はレギュラーに定着するも怪我で戦列を離れる。新潟に所属しながらも水戸と沼津にレンタル移籍をし、プロキャリア8年目にして初海外、アルビレックス新潟シンガポールへ移籍。SリーグMVPを獲得し、翌年よりローカルチームのホーガン・ユナイテッドFCに移籍し、現在も所属。2017年シーズンはゲームキャプテンも務める。

取材・文/四方 健太郎(よも けんたろう)
立教大学を卒業後、アクセンチュア株式会社の東京事務所にて、主に通信・ハイテク産業の業務改革・ITシステム構築に従事。2006年より中国に業務拠点を移し、大中華圏の日系企業に対すコンサルティング業務にあたる。2008年に独立後、1年かけてサッカーワールドカップ2010年大会に出場する32カ国を巡る「世界一蹴の旅」を遂行し、同名の書籍(双葉社)および、『世界はジャパンをどう見たか?』(経済界社)を上梓。現在、東南アジアやインドでグローバル人材育成のための海外研修事業に従事。現在はシンガポール在住。アジアサッカー研究所所長。東南アジアを中心としたサッカーニュースの配信や翻訳・PR、サッカー・フットサルチームの海外コーディネーション事業を営んでいる。